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東京都日野市のマンホール [各地のマンホール]

■2011年1月17日■
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インターネットを通じて10年ほどお付き合いをさせていただいている★る~ぴょん★から画像を送っていただきました。
ありがとう♪(#^ー゚)v。

東京都日野市のHP
http://www.city.hino.lg.jp/

日野市の花「菊」
日野市の木「かし」
日野市の鳥「かわせみ」

日野市の歴史
早くも約50,000年前の先土器時代から、多摩丘陵に人々が住み始め、縄文早期(約10,000年前)には、日野台地周辺に集落ができました。縄文後期になると低地にも人々が移り住むようになり、その後、6世紀ごろには、大規模な集落が形成されるようになります。

平安時代後期、京から来た日奉宗頼が日野に土着して、西党と呼ばれる武士集団の祖となります。西党日奉一族は多摩川沿いに展開し、市域とその周辺には、多西(西)・高幡・上田・田口・平山・土渕・田村・立河などの各氏が見られ、中でも平山季重は、源氏に従って一谷の合戦等で武功をたて、その勇猛果敢ぶりが広く知られた武将でした。

また古代末期から中世にかけて、現在の百草園一帯には、鎌倉幕府にとっての「祈祷の霊場」であった真慈悲寺が存在していたことが次第に明らかになってきました。

中世の日野市域は、船木田荘と吉富郷・得恒郷・土渕郷から成っており、鎌倉時代後半から戦国期にかけては、高幡高麗氏の一族が高幡不動周辺を始めとする浅川流域を支配していました。

高幡山金剛寺(高幡不動)は、多くの文化財があることで知られ、四季を通じて参詣客が絶えない市内随一の古刹ですが、建武2年(1335)の大風によって甚大な被害を受け、暦応2年(1339)~康永元年(1342)にかけて、別当儀海上人、大檀那高麗助綱らにより大規模な修復が行われました。

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不動堂本尊の不動明王坐像(国指定重要文化財)内には、以前から文書が納入されていたことが知られていましたが、近年の調査によって、それらが、北朝方として常陸合戦に出陣した山内経之の手紙を多く含んだものであることがわかりました。手紙には、合戦の苦しさや留守中の家族や領地に対する心配が綴られており、片面には不動明王や大黒天が印仏されています。高幡不動像内文書は、おそらく合戦で討死した山内経之の供養のため、故人の手紙に印仏し、修復されたばかりの不動明王に納入されたのではないかとも考えられています。
永禄(1558~1570)の頃から日野市域は小田原北条氏の支配下に入り、北条氏照は滝山城、のちに八王子城を拠点に多摩地域の開発を積極的に進めました。美濃国から移住してきた佐藤隼人は、永禄10年(1567)、北条氏照の協力の下で日野用水を開削しました。また天正14年(1586)の文書には「日野惣郷」の名がみられます。
江戸幕府が開かれると、日野市域は幕府直轄地と旗本領となり、慶長10年(1605)甲州街道が整備され、日野宿が置かれました。
貞享元年(1684)、日野宿の助郷村42ケ村が定められ、現在の市域の大部分の村が含まれました。同年、万願寺の渡しが上流の日野の渡しに変更され、渡船場は日野宿の経営となりました。
享保8年(1723)には、武蔵野新田開発の一環として、高倉原(日野市多摩平、富士町、旭が丘、日野台、さくら町、八王子市高倉町近辺)が開発され、日野地域の農業生産力は一段と高まります。
江戸時代後期になると、関東の農村で荒廃が目立ち始めたため、文化2年(1805)、幕府は関東取締出役を設置し治安維持の強化に務めました。文政10年(1827)には、取締組合村を作るよう幕府からの通達があり、文政12年(1829)には、日野宿を寄場とする日野宿組合村が組織されました。
幕末になると、度重なる外国船の来航に伴う幕藩体制の動揺などで治安がさらに悪化し、日野宿では、問屋(日野本郷名主兼帯)佐藤彦五郎の天然理心流への入門をきっかけに、剣術が盛んになりました。
当市出身の土方歳三と井上源三郎は、佐藤道場で出会った近藤勇や沖田総司らと共に上洛し、尊王擁夷の嵐が吹き荒れる幕末の京都で新選組を結成しました。新選組は京都の治安維持に尽くしましたが、やがて徳川幕府は崩壊し、井上源三郎は鳥羽伏見の戦いで、土方歳三は箱館で亡くなりました。
明治にはいると、多摩地域は神奈川県に属することになりました。明治22年の市制・町村制の施行により、日野宿(上宿、中宿、下宿の町場と東光寺、四谷、北原、下河原、万願寺、谷戸、仲井、山下の枝郷からなる)、桑田村(豊田、川辺堀之内、上田(かみだ)、宮、万願寺、下田、新井、石田の各村が合併)、七生村(平山、南平、高幡、程久保、三沢、落川、百草の各村が合併)が誕生し、明治26年多摩地域が東京府に編入され、日野宿は「日野町」に改められます。明治34年、日野町と桑田村が合併。この間の明治22年、甲武鉄道(現在の中央線)の新宿から八王子間が開通し、翌年日野駅が開設されました(豊田駅の開設は明治34年)。大正14年には、府中-八王子間に玉南電気鉄道(現在の京王線)も開通しています。
昭和にはいると、世界恐慌のあおりを受けて昭和恐慌に陥りますが、日野町ではこの打開策として工場誘致を展開しました。昭和10年前後には、「日野五社」を始めとする企業の進出が続き、周辺地域から注目を集めました。
一方、農業恐慌下の七生村は、農村経済更生運動の波に乗り、昭和7年、経済更生村に指定されました。昭和14年には東京府拓務訓練所が開設され、昭和20年には、分村計画のあった七生村の勤労奉仕隊員たちが満州の新京東京報国農場へ渡りました(幾多の苦難を乗り越え、昭和21年8月帰国)。
米軍機の本土空襲が激しくなった昭和19年には、日野にも都内赤坂区や、品川区から児童が疎開してきました。市域は幾度かの空襲に遭っていますが、最大だった昭和20年4月の空襲では、死者28人を出しています。
昭和33年、日野町と七生村が合併し、新しい日野町となりました。そして昭和38年、市政が施行され「日野市」となりました。この時、55,595人だった人口は、その後急激に増加し、昭和58年には15万人を越えましたが、近年この人口増加も落ち着きをみせています。
現在では、先端技術産業が立地する一方で、公共施設の充実や都市基盤の整備などが進められ、17万人の市民が住む自然に恵まれた住宅都市としてさらなる発展を続けています。


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日本各地、本当にたくさんのマンホールがあります。とてもとても集めきれませんが、皆様のお住まいの町にもきっと素敵なマンホールがあるのでしょう。是非ともお写真をいただけたらうれしいです。
100キロ程度の画像でしたらhttp://takashi-fukuyama.blog.so-net.ne.jp/2011-04-01-1にございます★まっとらんど★掲示板に写真をアップロードしていただくことができます。
また、メールフォームからも写真の添付ができるようになりました。是非ともご利用いただき、お写真を頂戴できましたら、とってもうれしいです。http://takashi-fukuyama.blog.so-net.ne.jp/2011-03-31-3←こちらのメールフォームをご利用ください。
何卒よろしくお願いいたします。
HN,ブログやHPのURL、マンホールを撮影した場所などコメントを添えてお送りいただくととてもうれしく思います。

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