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Chinto物語 その41 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.41)
この物語は、チントの記憶を頼りに、たどたどしい記憶の羅列ですので、間違いが多くて申し訳ありません。歳を重ねると、定かでない記憶が多くなりますので、その都度、指摘していただいて、訂正してください。そうすれば、私の記憶も読み帰りますから。
今日は、カレン子さんのことをしたためようと思っていたら、孝君と敦子さんのメールの中に、書こうと思っていたことが全部書かれて何を書けばよいのでしょうか?と困っています。
私は、カレンは典型的なイギリス人だと思います。所謂、英国風美人の見本のような人です。心も外見も非常にやさしく、しかし、芯はテコでも微動だにしないという強さの持ち主ですねえ。カレンは父親っ子で、お父さんにしては、目に入れても痛くない程の女の子。その子が、親元を離れて遠い日本に行こうというのですから、お父さんの当時の気持ちよく分かります。そして、彼のもととは言え、地球の裏側の見知らぬ国に飛んで行こうというその勇気と強さは、やはり、イギリス魂によるのだと思います。島国という点では日本とイギリスは共通していますがね。何も分からない日本にきて、最初は本当に苦労の連続だったと思います。言葉も通じないし、ただ一人を頼りに毎日を必死に生きていた当時のカレンの姿には、明るさが一杯でしたね。
私達夫婦は目を細めながら、カレンと孝のカップルを安心して見守っています。今では、カレンは全くの日本通で、名古屋付近の事は,私より詳しくなりました。今は、毎日、小学校で日本の子供達に英語を教える事に生き甲斐を感じて、朝早くから出勤するというイキイキしたイギリス人女性として強く生きています。微笑ましい隣のお2人さんと言う感じ。
カレン、ちょっと働きすぎ。健康には気をつけてねえ。いつも笑顔を有難う。と言ってやりたい強く、心のやさしいイギリス女性です。  Thank you.! KAREN!


■姉・敦子のコメント
カレン子ちゃんの話はやっぱ一人で日本にやって来た強さよね!タクリンも魅力だったのぉ?????スゴイパワーですよネ!頑張っていたはずなのに、そんなに片意地はっているようでもなく!働きすぎに注意して、これからも頑張ってください。


■★まっと★のコメント
カレンはとても芯の強い女性だと思います。父親に自分の女房がここまでほめてもらえると、本当にうれしいものです。確かに、自分自身も英国に滞在していて、日本と英国の文化的精神面における共通点などをいくつも見つけてきたつもりです。それだけにカレンが日本という環境の中で生活することに大きな壁といったら、『言語』であったと思います。それも今では殆ど克服して日常の生活にはまず困ることはありません。本人はいまだに努力を続けています。すばらしい女性だと思います。

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Chinto物語 その40 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.40)
一人息子;福山 孝もロンドンのトゥリニティ音楽大学の大学院に入るため渡英して5年も過ぎ、そろそろ日本に帰国してもらわないとと、その旨申し伝えました。彼女の存在は、うすうす感じてはいましたが、辛かったとは思いますが、帰国しました。帰国後どうしても彼女の事が気になってか、元気が無く、哀れな毎日を過ごしていました。
私も思い余って、彼に、心境を詳細にききました。彼女のことも。そこで私は彼に言いました。真剣に彼女を愛し、一生の伴侶としてお迎えする気持ちが、本心からあるのなら、今すぐ、イギリスまでお迎えに行ってきなさい。親として歓迎するからと。
彼は、勿論、イギリスに飛んで行きました。そして二人は、手を携えて日本にやってきました。カレンとは初めてあいましたが、やはり、イギリス風美人でした。父親っ子だったカレンが居なくなった時のお父さんの気持ち、痛いほど分かります。また、日本の右も左も、言葉も全然わからない、そんな日本にきて苦労したと思いますが、恋に生きている人の強さをまさしく感じました。カレンは強い!
昭和60年12月28日午後1時から南山カトリック教会に於いてマチアス福山 孝とカレン・テイラーは孝と南山での同級生の菊池 実神父の司式で結婚式を挙げ、皆様に祝福されて名古屋観光ホテルで披露宴を開く事が出来ました。それから18年目(2003年現在)を迎えていますが、二人は今も仲睦まじく、幸せな毎日をおくっているようです。次回はカレン子さんのことになりそうです。


■★まっと★のコメント
またまた訂正ですね。英国滞在は5年間ではなく、4年間です。年齢の計算が会わなくなってしまいますよ。1984年に帰国しました。
そして、1985年4月に初めてカレンは来日しました。小林社長がカレンを日本に招待してくださったのです。そして2週間の滞在中に父・徹、母・澤美にカレンと二人で結婚の意志を伝えました。そして、カレンは再度、英国へ。当時、仕事と言う仕事もしていなかった★まっと★はカレンを迎えに行くこともできず、確かに楽しい日々ではなかったように覚えています。帰国してすぐに『帰国記念リサイタル』を開催し、その後、結石を患い名古屋国立病院に入院しました。退院して間もなくのころだったでしょうか。、父・徹から『彼女をイギリスでいつまで待たせるんだ?俺だったら、つれてくるなぁ。』と言われたのですが、確か、母・澤美がヨーロッパに旅行に出かけているときだったと思います。1985年の5月です。こういう話のときに母・澤美が同席すると厄介なことになると父・徹は考えたのでしょうか?母が旅行から帰国して数日後にカレンの待つ英国に飛んだのです。父・徹が結構ロマンチストだと知ったのはこのときが初めてです。
記憶にある方も少ないと思いますが、英国ブラッドフォード市のサッカー競技場が火事になった1985年5月10日に英国でカレンと婚約しました。英国の両親もそのときは賛成してくれたんですが、★まっと★が日本に帰国してから猛反対、カレンはつらい日々を送ることになったのです。そして、同年9月にカレンももう耐えられない状態に陥ったのでしょう、『わかれよう。』と言う一通の手紙。あわてて英国に飛びました。ロンドン・ヒースロー空港に到着したとき、カレンが泣きながらたっていた姿、一生忘れることはないと思います。あまりにも哀れな姿でした。この子を一生守らなくてはいけないと思いました。そして、カレンの来日用の片道エアーチケット、ウェディングドレスを用意して日本に帰ってきました。★カレン★はクリスマスには実家に帰るから・・・と実家の両親に告げていたのですが、12月21日、一生の旅立ちとなるかもしれない祖国を後にし、来日しました。
当然、英国出国当日、英国の両親もカレンの出国に気が付き、毎晩のように日本に電話が入りました。しかし、カレンは受けることがありませんでした。それから丸々一年カレンは両親と顔をあわせることも無く、また、口を利くことも無く断絶の期間が続いたのです。
12月21日に来日したカレンは28日に★まっと★とめでたく挙式。この日、それだけのバックグラウンドのなか、あれだけの美貌に笑顔がたえることのなかったカレン、婚約後のカレンの苦労がいかほどだったかを物語っていたのだと思います。★まっと★は本当に幸せ者ですね。
それから18年(2003年現在)の月日・・・・・。今でもカレンの笑顔は最高に美しいと思います。


■姉・敦子のコメント
タクリン(姉・敦子は★まっと★のことをそう呼びます。)&カレン子ちゃんのロマンスに盛り上がってますね!我々は、旭川にいましたが、いろいろ話は聞いていました。タクリンにイギリスの彼女のところに行けと父上が言った話!お父さんから直接聞くの、いいですねぇ~。その時の父上の心境ももっと詳しく聞きたかったような気もしますが・・・
カレン子ちゃんはわざわざ、旭川まで我々に会いに来てくれましたよね!メチャメチャかわいらしい感じだったのを覚えています。それにしても、あのかわいらしさの何処にたくましさを持っていたのでしょう!とっても、勇気ある行動だったはずなのに・・・・ネ!!!

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Chinto物語 その39 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.39)
可愛い息子には旅させよ! ではないけれど、一人息子;孝はイギリスのトゥリニティー音楽大学の大学院(ロンドン市内)に留学が決まり、本人は、わくわくして日本を離れて行きました。当時、1ドルが240円位で、今の1ドル110円代の倍以上でしたので掛かる費用も、日本円で倍以上、送金する親の苦労は、並大抵ではなかったような印象が残っています。親の苦労はさておき、本人は、嬉々としてロンドンへ飛んで行きました。
リンゼイ教授(故人)にピアノの指導を受け,大変お世話になったようです。また、ピーターさん(故人)にも大変お世話になったようです。私共夫婦もロンドンでリンゼイ先生とはお会いすることが出来たし、ピーターさんには日本にも来ていただいたし、いろいろな方々にお世話になりながら、楽しく、大学院生活を送れたようです。特に、大学の学部生の中に、意中の女子学生が出現し、更に、楽しい留学生活を送ることが出来たようです。その女子学生は、大変な美人で、出身はイギリスのヨークシャだそうです。 誰でしょうか? 次回に続くーーー


■★まっと★のコメント
なんだか超特急で話が展開していますが、、、実際に、英国にわたったときは英語学校だけしか決まっておらず、英国のどこにどのような音楽院が存在するかの知識もありませんでした。よって、進学する音楽院を決定したのは英国での生活が始まって半年ほどたってからです。
確かに、レートが今とは比較にならなかったので、そういった意味合いでは両親にかなりの苦労をかけていたのでしょう。自分はいたって楽しい日々を送っていました。勉強したいことを勉強できる喜びを感じましたね。
さぁ、★まっと★もカレンちゃんに出会いましたね。この先どう展開するのでしょうか?

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Chinto物語 その38 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.38)
健康に恵まれ、弓道と言う精神的にも、肉体的にも支柱に支えられて、安定した毎日を過ごせるこの幸せを心から有難いと思う今日この頃です。 神に感謝!
今回は、我が家の一人息子(福山 孝)のお話に触れましょう。孝君は、昭和33年2月14日に星が丘の病院で生まれました。予定日よりも遅れて生まれただけに、大きな赤ん坊で、お産も大変だったようです。生まれる時から母さんに苦しみを負わせていたようです。孝という名前は、私の尊敬する札幌のカトリック司教だった富沢孝彦司教様の「孝」を戴いて付けました。
まだ幼稚園に入る前から、2歳上の姉、敦子のオルガン教室に母,サワミに連れられて行き、教室の外から、オルガンの音に、ドとかソとかミとかを正確に大声で叫んでいたそうです。姉の方は、途中で、止めましたが、孝は、音楽に興味があったのか、その後、オルガン教室、そしてピアノ教室と進み、小学校時代からピアノの個人レッスンを受け、南山中・高の時もピアノを続け、名音大に進学というピアノとは縁の切れない道を歩きはじめました。余程、音楽に興味があり、多分才能もあつたのかもしれません。音楽の道を選んだのですから。
大学の四年の夏休み、ショパンの生まれ故郷ポーランドに留学し、ショパンに熱中するようになったようです。ところが、ポーランドから帰国してから、大学に行かなくなったのです。卒業前だというのに?困った私は、息子に、名音大を卒業してから、外国の音大の大学院に留学すれば、と言いました。次の日から大学に行き始めました。あきれた奴です。
無事、卒業し、今度は、留学先の選択です。イギリスに決定。そしてカレンとの出会い。
その後は次回のお楽しみということにします。


■★まっと★のコメント
今回も若干の訂正箇所があります。小学校に入る前から個人レッスンは始まっていましたね。オルガン教室は姉・敦子よりも一年遅れてはじめましたが、かなり退屈なものでした。ですのですぐにやめてしまい、姉が師事していた佐藤和子先生のところにすぐに変わったのです。
音楽とはもう離れられない生活ですね。このまま一生ピアノを弾き続けられたらと思っています。本当に幸せな人生。神に感謝すると共にやはり、両親にも深く感謝しています。

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Chinto物語 その37 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.37)
お勤めを止めて凡そ10年、その間、弓道を中心の生活をしてまいりましたが、第2のお勤めの如く、弓道場に出勤しています。しかも、日曜、祭日なしの出勤です。ただ,精神的な面が全然違います。以前は、戦場に向う兵士の如く、決死の覚悟で、戦場ならぬ職場に勤めていましたが、今は,気分的にリラックスして,弓道が目には見えない糸で、私を道場に引き寄せてくれている感じで、朝9時には、道場に到着と言う毎日です。とかく、年を取ると、時間的にルーズに成り易いようですが、如何に規則正しい生活が出来るかが元気で毎日を送れるかどうかのキイポイントのようです。弓道に打ち込めている私は幸せ者だと思います。奥深い弓道なので、なかなか上達しませんが、何とか上達しようと言う意欲が湧き、それが努力に結びついて足が道場に向うのだと思います。弓道に出会えて本当に良かった。神に感謝!
ヒヤチント物語もそろそろ終わりに近づいたようです。もう一度、おさらいしつつ抜けたところが
ないかどうかチェックしてみます。


■★まっと★のコメント
本当に弓道が父・徹の生活のリズムを保持させてくれているのでしょう。すばらしいことだと思います。リラックスした中に研究心と向上心が交差して日々の生活までも充実へ誘っているんですね。自分の今の生活を振り返るときに、何かに振り回されているだけのような気がして、充実した毎日を取り戻すが如く、のた打ち回っているように思えてなりません。
ヒヤチント物語もそろそろ終結を迎えるのでしょうか?どんどん補ってほしいものだと思います。すばらしい父・福山 徹とその家族の人生が盛り込まれた文集です。


■姉・敦子のコメント
ヒヤチント物語りも終盤のようですネ!随分楽しませてもらいました。福山さんちにとって貴重な経験でした。その原因を作成した父上に感謝いたしまするぅ~。なんと言っても、昔を振り返りながらも、今の充実感が伝わって来るのがとっても良かったです。
母上と二人、現在を元気で充実して送れていること!本当に、神に感謝です!

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Chinto物語 その36 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.36)
平成5年、胃がんの手術が終わり、南山学園からも完全に退くことが出来、それから、専ら弓道に専念できる環境になりました。猛練習の開始です。無欲、無心で練習すると、的中率もよくなるものです。60歳以上の人に、毎年、ねんりんピックと言う全国大会があります。平成8年の宮崎大会に、名古屋市代表の選手に選ばれ、予選を勝ち抜き、優秀賞を名古屋チームは獲得。平成8年の名古屋市民スポーツ祭の大会では、3段以上の部で第3位を獲得。その調子で上達すると嬉しいのですが、そこが弓道の難しさ,奥深さです。足踏み状態が続きます。それでも、平成10年には4段を獲得。また、平成12年のねんりん大阪大会に、再び、名古屋市代表に選出されて、その時も、名古屋チームは優秀賞を獲得しました。現在も毎日のように練習をしていますが、その奥深さを実感として体験しています。毎朝、定時に家を出て、嬉々として弓道場に向かう自分をみて、心から満足し、微笑んでいます。今日もイッテマイリマス。


■★まっと★のコメント
南山学園から完全に退いてからの父・徹は、本当に人間がかわったように思います。よく話し、よく笑う。そんな父の姿を見ていて、人生の前半は戦争に、そして勉強、就職、仕事、最後に交通事故と忙しく年を重ね、今になってやっと本当の意味での人生、そして家族を楽しんでいるように感じます。熱中するものがすばらしい時間を日々暮らしている父は幸せですね。『心からの満足』ほど最高なものはないじゃないですか。
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Chinto物語 その35 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.35)
平成4年、天白の弓道教室を終了して、本格的に弓道の練習に打ち込めたのは一年後位からでした。と言うのは、平成4年には、停年を過ぎていましたが、まだ、学監として、また学園の理事としての任期が残っていましたので、南山に通勤していましたので、弓だけに熱中することは出来ませんでした。平成5年の初め、胃がんで胃を3分の2切って、その時、南山も完全に身を引くことが出来、全くフリーの身分となって、それから本格的に弓道の虜となり,弓道に打ち込めるようになりました。本格的に弓道の道に入り込んで、今年は(2003年現在)、丁度10年になりますが、こうして朝9時には弓道場に入って、午前中、毎日のように練習出来るこの幸せさを大事に味わい、今後も生かしていきたいと思います。ある意味において、私と言う人物を改造したかもしれません。弓が笑顔を作り出したと言えるかもしれません。当分、弓の話が続きそう。


■★まっと★のコメント
なるほど、父・徹の笑顔は弓道が取り戻してくれたと言うことなのですね。すばらしいと思います。最後の最後まで南山学園で必死になって学園のために尽力し、その後にこのようなすばらしい時間が待っているとは父・徹自身も予想はしていなかったことだと思います。人間が引退した後、いかに人生を切り開いていくかによって、その人生の最終的な価値観は決してまだまだ定まらないと言うことなのでしょう。まだまだ、これからですね。

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Chinto物語 その34 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.34)
平成4年4月から、天白のスポーツセンターで弓道教室に入りました。毎週土曜の午後が教室のある日で、二ヶ月(8回)で卒業です。教室で習う内容位は、若かりし頃、学んでいたのを思い起こすには大変好都合でした。教室で習う間は、従って優等生でした。教室が終わると、後は道場に通って如何に練習するかに掛かっています。同じ教室にいた十数名の人の中で今も弓を続けているのは私一人だけです。幸い、弓の先生にも恵まれ、良く練習もしました。上滝先生という美人の大先生がいらっしゃって、良く指導して頂きましたが、旦那さんの転勤で、東北の方へ行かれ、その後は、今の天白の会長さん(梅本先生)に指導して頂きました。
まず、弓と矢を購入しなければなりません。弓の強さは?矢の長さは?分からない事だらけでした。しかし、的に向かって矢を放ち、的に当たった時の嬉しさは何とも言えないものです。的に当たったからと言って、喜んでばかりはおれません。そこが弓道の難しさです。弓の引き方が正しくて、狙いも正確ならば、確実に的中します。弓の引き方が悪くても、的に当たる事があるので、一概に、当たったといって喜んではおれないのです。弓道は本当に奥深い武道で、一度はまったら止められないものです。遣り甲斐のある貴重な弓道に出会う事が出来て、心から良かったと思っています。
今の笑顔もここから生まれたのかもしれません。感謝!神に感謝!アーメン


■★まっと★のコメント
弓にせよ、音楽にせよ、やっぱり奥深いものだと思います。それだけに歴史のある『道』なのでしょうね。人間の精神を養い、日々の生活の中に喜びとその努力の実をもたらしてくれるのですね。芸術の世界も同じようですね。ピアノを引き続け、そして、正しいと言うものはないのかもしれないし、正しいものが無限にあるのかもしれないし、ただ、いえることは自分にとって正しい道がひとつしかないと言うことでしょう。それぞれの肉体の環境や考え方、感じ方の違いによりそれぞれの『正しい道』が異なるものなんでしょう。父・徹も退職してから人生のすばらしさや人間としての生き方の存在を実感しているのかもしれません。大正の最後にこの世に生まれ、昭和の戦争を実際に体験し、その戦争のために青春の半分を心から燃焼し、陸軍士官学校での生活、そして終戦。自分の生き方の再発見に尽力し、そして勉学に励み、研究に没頭し、卒業と同時に名古屋と言う新しい土地での社会人生活。そして結婚。二人の子供たちを育て上げるためにひたすら仕事とお酒の日々。人間として金儲けを考え始めたのは子供も育ちあがろうとしたころでした。株にはまって、さぁ大変!余生を豊かに・・と思ったはずが仇となり、投資したものは全てバブルと共に泡となり、お金儲けは性にあわない家族のようです。でも、お金がなくてもお金で買えない笑顔が毎日あるだけで、最高に幸せなのではないでしょうか。ある意味、人生の意味合いを無駄にした青春の日々、そして高度成長と共にわき目も振らず、仕事に生きる全てのエネルギーを燃やし続けた半生を考えると今の父・徹の悠々自適な生活ほど有意義な時間はなかったのではないでしょうか。人生とはどこでどのように交差し、歩む道を発見するかでこんなにも有意義に暮らせるものだと感心しています。今のカレンを見ていると父・徹が歩んだ人生そのものではないかと思うことがあります。報われないかもしれない仕事に没頭し、全ての力で対応するカレンの姿が、父・徹の後姿にあまりにも似すぎているように思えてなりません。『虎の子は虎』とでも言いましょうか、寅年生まれの父・徹と妻・カレン。カレンの人生のこの先にはきっと満面の笑顔が待っていることも事実なのでしょう。

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Chinto物語 その33 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.33)
父;清一郎は弓道錬士の称号をもっていました。その姿を子供の頃見て、かっこう良いと思ったのでしょうか?中学1年生の時、私も弓道部に入りました。しかし、部には指導者がいなくて全て、自己流の練習ですから上達する筈もありません。中学3年の初めに父は漢口に転勤になり、私一人,吉野の叔父、叔母の家にお世話になることになり弓も部に所属していただけの状態だったので、その後、弓の事は,全然私の念頭になかったのです。それから約、50年後、天白のスポーツセンターのプールに泳ぎに行った時、掲示板に弓道教室生徒募集という掲示を発見。そういえば、昔、弓道をやっていたんだという記憶が蘇えり、瞬時に、弓道教室に入ろうかなんて言い出すので、母さんもびっくりするのは当然。こうして再び弓道生活の開始となりました。定年後の特に男の人の毎日の過ごし方が難しいと言われていますが、お陰さまで、私は、何の抵抗も無く、自然に弓の練習と言う貴重な宝物を得て、毎日活き活きした生活を送っています。心から神に感謝!


■★まっと★のコメント
弓道錬士の称号とやらが何なのかよくわかりませんが、字面から見ても『弓が上手な人』と言うことなのでしょう。祖父・清一郎がそれほどに弓がうまいとは知りませんでした。父・徹は知らず知らずのうちに弓道に誘われていたんですね。最近の父親の生き生きとした姿はとてもうれしいものです。南山学園に在職中には見ることのなかったような笑顔や、はつらつとした日々のすごし方には子供たちもあこがれさえ感じてしまうほどです。話はかなり現在になってきましたね。このヒヤチント物語も終盤なのでしょうか?エンディングも楽しみです。
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Chinto物語 その32 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.32)
前回の物語の中に、誤りがございましたので、謹んで訂正申し上げます。前立腺を3分の2切ったようになっていましたが、切ったのは、ガンが見つかった胃でした。ゴメンナサイ。
今日は,弓道のことに触れてみたいと思っています。足の骨折の後、リハビリを兼ねて、天白のスポーツセンターのプールに時々、母さんと泳ぎに行っていました。私は、出身が海に囲まれた五島ですし、京都の三高時代は水泳部に所属していましたので、泳ぐことは大好きで、プールにもリハビリを兼ねてとはいえ、全然,抵抗は無く、プールに通っていました。ある時、確か平成4年だったと記憶していますが、母さんとプールに行く為、天白のスポーツセンターに入り、掲示板を見たら、弓道教室の生徒募集の掲示が出ていたのです。母さんに弓道教室に入ろうかなと言ったら、びつくりしたような顔をしてました。実は、幼少の頃,弓をやっていたことを。母さんにも話してなかったようでした。実は、子供の頃、上海で、父、清一郎が羽織、袴を着て弓道に熱中している姿をみて、上海中学で、5年間、弓道部に所属していたのです。その後、三高には弓道部が無く、名古屋にきてからも弓の事は、全然、頭になく、たまたま天白のスポーツセンターで弓道教室の掲示を見て、弓のことが頭に蘇ったのです。自分でも不思議に思いました。そのように母さんに話したら、納得して、是非、弓道教室にと逆に薦められて平成4年4月に天白の弓道教室に入りました。その後、今にいたるまで、弓に凝りにこった毎日を楽しく過ごしています。明日も弓の話になりそうです。


■★まっと★のコメント
やっぱり3分の2をきったのは胃でしたね。ちょっとだけ若い分、★まっと★の記憶も正しいのでしょうか?
父・徹を弓道に誘ったのは祖父・清一郎ということになりますね。祖父の羽織、はかま姿を見て弓道に魅かれていったわけですね。不思議なものだと思います。父・徹が週末の早朝から隣人の迷惑を気にすることも無く、オーディオで最大級のボリュームによるクラシック音楽を楽しんでいたことが、今では★まっと★自身を音楽に誘ったのではないかと思います。音楽の世界に身をおくことに最大の幸福感を感じている現在、家族の中で代々、父親が息子に何らかの影響を与え、その影響が息子の人生の内容を一段と充実していくものなのですね。家族とは本当にすばらしいものだと思います。
弓の話は確かに成長過程では耳にすることが無かったように思います。ただ、記憶として祖父・清一郎の羽織・はかま姿の写真が僅かに残っているだけですね。

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