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Chinto物語・・目次 [Chinto物語]

50日にわたり皆様にお読みいただきました『Chinto物語』も本日最終回を迎えました。
2003年、父が家族のメーリングリストに自身の人生を振り返り書き綴ったものです。
ここに目次ページを作成しました。

Chinto物語 その1    
Chinto物語 その2    
Chinto物語 その3
Chinto物語 その4    
Chinto物語 その5    
Chinto物語 その6
Chinto物語 その7    
Chinto物語 その8    
Chinto物語 その9
Chinto物語 その10   
Chinto物語 その11   
Chinto物語 その12
Chinto物語 その13   
Chinto物語 その14   
Chinto物語 その15
Chinto物語 その16   
Chinto物語 その17   
Chinto物語 その18
Chinto物語 その19   
Chinto物語 その20   
Chinto物語 その21
Chinto物語 その22   
Chinto物語 その23   
Chinto物語 その24
Chinto物語 その25   
Chinto物語 その26   
Chinto物語 その27
Chinto物語 その28   
Chinto物語 その29   
Chinto物語 その30
Chinto物語 その31   
Chinto物語 その32   
Chinto物語 その33
Chinto物語 その34   
Chinto物語 その35   
Chinto物語 その36
Chinto物語 その37   
Chinto物語 その38   
Chinto物語 その39
Chinto物語 その40   
Chinto物語 その41   
Chinto物語 その42
Chinto物語 その43   
Chinto物語 その44   
Chinto物語 その45
Chinto物語 その46   
Chinto物語 その47   
Chinto物語 その48
Chinto物語 その49   
Chinto物語 その50(最終回)
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Chinto物語 その50(最終回) [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.50)最終回
何時の間にか私も76年間(2003年現在)と言う長い期間、生きてきました。長かったようでもあり、短かかったようでもあります。何時死んでも心残りが無い程、幸せな人生でした。もちろん、苦しい時や悩んだ時もありましたが、嬉しい時や楽しい時の方が、圧倒的に多かったと満足しています。
両親(もう故人になりましたが両家の)、兄弟(福山家には故人もいるが和田家は皆さん健在)そして子供達(健二、敦子、孝,カレン)に恵まれて徹と澤美は幸せな毎日を送っています。有難うと大声で叫びたい。
何と言っても、私の人生は,最愛の妻、澤美によって支えられてきたと思います。世間知らずの我侭などうしようもない一人の男をきちんと支えてくれたのは何と言ってもサンちゃんでした。有難う。これからも仲よくしましょう。 何より誇れるのは、福山家の3家族が、各々、夫婦仲よく、立派に独立して幸せな家庭を持ち続けていることです。親に頼らず、子に頼らず、兄弟に頼らず、そして3家族が仲よく過ごせるのは最高!これからも宜しくね。 私共夫婦は、これからも身体が動く間は、弓と卓球に熱を入れて練習に励むつもりでいます。まだまだやれそうです。精神的に強ければ、肉体的にも強くなり、元気を維持することが出来ると思っています。頑張るぞ!
若い(私達より)者も年寄りに負けないように頑張れ!
ヒヤチント物語 終


■★まっと★のコメント
お母さん、良かったですね。なんだか、とても暖かい最終回です。お母さんの今までの苦労(?)も報われるようなコメントで締めくくられました。すばらしいと思います。もうすぐ金婚式ですね。(注:2009年5月5日で、もうすでに54回目の結婚記念日をむかえました。 この物語は2003年の春に書かれたものです。)二人で金婚式を迎えられると言うのはなかなかないことです。二人とも元気でこれからの人生を楽しんでいただきたいです。健康の維持が幸せの根源ですね。我々もさほど若くはありませんが、がんばらなくては!!

***********

多くの皆さんに呼んでいただいたChinto物語も今回が最終回。
本当に50日間、お読みくださって、ありがとう♪(#^ー゚)vございました。

これからも★まっとらんど★、そして福山孝をよろしくお願いいたします。

今回、古いファイルをソネットブログに移行するためにこうして再発表させていただいたChinto物語ですが、
久しぶりに自分自身も読み返す良い機会を得ることが出来ました。
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Chinto物語 その49 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.49)
桜山から星が丘に移り,アパート生活が始まりました。狭いながらも楽しい生活のはじまりです。孝君が生まれた時には、敦子さんは博多のおばあちゃんのとこに預けられたりしましたが、親子4人元気に過ごしていました。本山の聖マリヤ幼稚園にタクシーで通う豪華さでした。
孝くんは幼稚園の時に洗礼を受けました。マチヤ君の誕生でした。幼稚園の遠足から帰ってから足が痛いと言い出してはちや整形外科に入院した敦子さんの話は前に述べました。本人もですが、その時の母親の精神的打撃は凄いものでした。でも君達の母親は強い。敦子さんも強い。我が家の女性2人は本当に強い人間だと実感しました。弱いのは男性の2人かもねえ?意地でも強くなるよう努力中ですよねえ孝君。
南山に勤め始めた頃は、コーヒー党だった私もだんだんアルコール党に変わり、キャバレーやバーに毎日のように出掛けるようになり、朝帰りも多くなりましたが、愚痴一つ言わず、寝ずに私の帰りを待っている澤美さん。子供二人を寝かしつけて、夫の帰りを待っている姿を想像すると、自分に怒りを感じます。が止められない。男って弱い者ですね。私だけかしら?
澤美さんの今の生活の強さに元に株というものがあります。最初は、堀先生に誘われて、私がやり出し、商業出身の澤美さんもやり出し、私は損ばかり、彼女は益ばかり。今までに、彼女は株で億のお金を儲かっているのではないかと想像しています。今は,当時高く買った株が値下がりして四苦八苦ですが、生き甲斐を感じつつ、老眼鏡を掛けながら、新聞の株式のちいさな数字を眺めています。この物語、次回で完了にします。


■★まっと★のコメント
福山家においては女性のほうがしっかりしているのは事実でしょう。男性陣もがんばらなくては・・・。母の株の話ですが、カレンも来日して仕事に少しだけ余裕ができ始めたころ、なんとなく株をはじめましたね。一回だけでした、電力株で数万円儲けて、それっきりになっていますね。さぁ、カレンも将来、株でがんばっちゃうのでしょうかね。福山の嫁ですからね。北海道の姉もがんばっているようだし・・。★まっと★自身は父を見ていて、自分は手を出してはいけない分野のものだと決めているのですが、いかがなものでしょうか?


■父・徹のコメント
孝君の株のお話は、結論から申しますと孝君は手を付けない方がよいでしょうね。私も儲かった事もあったけれど、最後には、大損でしたからね。君も私も手を出さない方が安全のように思います。株のことは女性軍に任せましょう。ただし、字が小さくて見難いけれど、新聞の株式のページは必ず丁寧に見ています。値の上下が社会の動きに左右されますので、社会の変動を知る為にも大切な事だし、母さんに時にはアドバイスもできます。


■★まっと★のコメント
お父さんがアドバイス・・・大丈夫でしょうか??大損したお父さんのアドバイス、お母さんは受け入れるのでしょうか?一寸そんな疑問を感じてみました。

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Chinto物語 その48 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.48)
和田澤美さんも畑添経理事務所に勤めながら、一生懸命にカトリックのお勉強をして目出度くカトリック信者となりました。洗礼名はマルチェリーナでございます。
結婚するまで、私はミカエル寮という南大職員の独身者の宿舎(今の南山短大のとこ)におりましたので、引越しをしなければなりません。丁度その時、高3の生徒(東京の大学に合格が決まっていた)の家族が東京に引越すので、その家が売れるまでそこに住んでくださいと言うことになりました。それが車道のとてつもなく大きい家で、そこに新居を構えての新婚生活の始まりでした。ところが、その家が直ぐに売れちゃって出なくてはならなくなり、今度は住む家探しです。まだ荷物が少なかったから良いですが、桜山の近くの下構町の二階住まいが始まりました。お勝手は下で一階の方と共同で,澤美さんも随分、苦労したことと思います。お腹の中には、その時にはもう敦子さんが存在していました。21歳で結婚し、昭和31年4月27日(1956年)聖霊病院で出産。22歳で若き母親となりました。生まれた赤ちゃんの名前が、敦子。洗礼名が、マリア・ゴレツティー。2950gの小さい可愛い女の子でした。小さい赤ちゃんを背負っての二階住まいも大変だったと思います。最近になってその家の傍に行ってみましたが、その家は存在しませんでした。幸いな事に、無抽選で星が丘のアパートに入居が決まり、4階の住人となりました。向かいが小島さんで、いろいろお世話になりました。孝君が生まれたのは星が丘時代です。アパートの近くの病院で昭和33年2月14日(1958年)待望の男の子が誕生。澤美さん24歳で二児の母親となりました。右も左も分からない名古屋にきて、夢中で過ごした澤美さんの三年間でしたが、精神的にも肉体的にも辛い辛い、そして金銭的にも辛い毎日でしたね。ご苦労さんでした。Thank youvery much! でも傍に役立たずの徹ちゃんが居たからその辛さも乗り越えれたということを忘れないで下さいよ。一寸ノロケタとこであとは明日にしましょう。


■★まっと★のコメント
惚気というところまではまだいかないのかもしれませんが、父・徹にとっては母・澤美に対する最高の賛辞だと思います。本当に幸福な家族のスタート地点だったのですね。車道から桜山を経て星が丘。そして現在の平針までと本当に長い道のり、そして二人の子供が結婚してそれぞれに独立。半世紀にわたる名古屋・福山の歴史を振り返る機会がここにあり、幸せなことだと実感しています。お父さん、お母さん、ありがとう。


■父・徹のコメント
孝君、ごめんなさい。小学6年生の時、一人で五島に行き、おばあちゃんにそんな事を言われたとは、今まで全然知りませんでした。酷い!それを知っていたら、生前のおばあちゃんを叱り飛ばすところですが、もうあの世の人になった方ですので、私に免じて許してあげて頂戴。お願いします。それにしても、酷いですね。私の方が怒れてきます。物事は、全て自分自身に置き換えて考え、その事が如何に人間を傷つけるかを考えて、自分の口を慎むようにしょうと前向きにそれを生かしましょう。口を開く時は慎重に。言ってはいけない事は絶対に言わない事に心掛けましょう。


■★まっと★のコメント
いえいえ、確かに昔のことですから。ただ、このことは母・澤美には話してあったんだけど、父さんには話がいってなかったかな・・?そのころから、おばあちゃんに対する見方は子供なりに変わっていったと思います。こういったいろいろな歴史があって今があるのですから、やはり大切jな過去の一部なんだとも思えるようになっています。確かに慎重に口を開くように心がけなくてはいけませんね。


■姉・敦子のコメント
おのろけ、ヒヤチント物語楽しいですね!それにしても、澤美さん若かったのねぇ~。そういう時代もあったと言う事ね・・・・・?!ナハハッ

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Chinto物語 その47 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.47)
今日から我が最愛の妻;福山沢美(旧姓和田)の物語になります。彼女は、昭和8年7月17日,薬屋:和田全快堂の長女として,福岡市(博多)の堅粕で産声をあげました。私が、彼女に初めて会ったのは、彼女が高校3年の夏休みでした。当時、私の兄:福山新二(故人)は福岡県立福岡商業高等学校の数学の教師をしていまして、彼女は、その学校の生徒でした。卓球は当時から、部で活躍していたようです。多分、進学か就職かで彼女は思い悩んでいたのでしょう。兄が見るに見かねて気晴らしに、卓球の練習があるのに、高三の夏休みに五島まで連れてきたのです。
その時、私は、京都大学に在学中で、夏休みで五島に帰省中でした。兄が彼女を連れて来るというので、汽船の着く波止場まで迎えに出て、初めてお会いしました。初めての印象は「とても活発な美しい(?)お嬢さん」と言う感じでした。父も母もまだ健在でしたので、皆で歓迎して迎えました。楽しい夏休みを送る事が出来ました。
博多に帰る日、海が荒れて船が欠航してしまいました。密かに喜んだ私でした。楽しい夏休みも終わり、私は京都に戻りました。そこから文通の始まりです。彼女は五島から帰って(船の欠航で遅れて試合に出れず、顧問の先生から酷く叱られたようです。
彼女は卒業して畑添経理事務所に勤めるようになり、私も大学の卒業式を迎えるに当たって、保護者代表として彼女に京都まで来て頂くまでに文通も発展していました。 毎日のように手紙を書いていましたからその量たるや呆れるほどでした。昭和29年、私は南山に就職して名古屋に住む事になり、一年後の昭和30年(1955年)5月5日、二人は目出度く結ばれました。思い出の都市、京都の河原町三条のカトリック教会で挙げた結婚式でした。逞しい母さん福山沢美の話は続きます。


■★まっと★のコメント
あらら・・このお話は母・澤美から聞くことは多かったですが、父・徹の口から聞くのは初めてなのかもしれませんね。父さんのほうが先に母さんに惚れたんだということを確認しました。あのおばあちゃんが母さんを暖かく迎えたんですかぁ?それはちょっと考えにくいものがありますね。子供心に嫁いびりの厳しい方だったようにしか覚えていませんから。無論、新二おじさんの教え子として迎えるのと、嫁として迎えるのとでは、あのヨツばあちゃんにとっては大きな違いがあったんでしょうね。お見合いが主流の福山家ですからね・・父・徹の兄弟姉妹のなかで恋愛結婚したのは父・徹と母・澤美だけですものね。五島のおばあちゃん:ヨツさんはやっぱり一寸苦手でした。あまりにも博多のおじいちゃん、おばあちゃんがやさしかったから、それだけにギャップを感じましたね。五島の清一郎じいちゃんのことは記憶に全くないですね。姉・敦子は清一郎じいちゃんとの写真が残っているくらいですから・・・。


■姉・敦子のコメント
どちらが先に惚れたのか?それはわかりませんが・・・・、船が欠航になって、お父さんが喜んだとはねぇ~。お父さんから直接こういう話を聞く機会が与えられた事を本当にありがたく思います。
五島(福山)のおばちゃんの印象?!私は、タクリンほど敏感ではないので、それ程思いませんでしたが?!


■父・徹のコメント
孝君のコメントではヨツさんのことが、随分、酷い人のように書かれていましたが、そんな方では決して無かったと私は思います。何と言っても、私のお母様でございますので、おて柔らかにお願い申し上げます。そうでなければ、こんな良い息子(君の父親のこと)が育つ訳がありませんよ。お願いだから、思い直して頂戴。彼女は私の母上ですぞ。過去の事は、何事も、好い思い出にしましょうね。


■★まっと★のコメント
そうですね。でも、お父さんの人生の中で祖母・ヨツとの接点はあまり見出すことができないので、長男としては父は父、祖母は祖母として客観的に受け止めてしまっている部分もあるのかもしれません。いずれにせよ、『過去の事は、何事も、好い思い出にしましょうね。』これはお父さんの持論ですね。本当に素敵だと思いますが、拭えないこともあるものです。しかしながら、小学校6年生のときに一人で五島に渡ったとき、祖母から直接★まっと★に『あなたは生まれてくるはずの孫ではなかった。』と言われた事実、忘れるように努力します。『あなたのお父さんにはちゃんとほかの女の人を用意していたのに・・・』。そこまで言われて子供が傷つかないわけありませんからね。そういった布石から考えても、父・徹と祖母・ヨツとの接点は見出すことができずにいるのです。

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Chinto物語 その46 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.46)
チント物語を書きながら、つくづく思う事は、如何に、私の記憶がいい加減になっているかという事です。これも年を取った所為ですかね。一寸酷すぎるとは思いますが我慢してください。間違う事によって、皆さんがそれを指摘して直してくださる。私は、そうだったのかあーーと再認識して、しっかり把握できる。ボケ防止には最適ですね。皆さんも、間違った記述であつてもそれを元にして、昔の事を,再び思い出せる効果はあったようでよかった、よかった。
今日は、煙草について触れてみます。昭和20年8月15日、日本が戦争に負けた敗戦記念日です。私は、当時、18歳(あと2日で19歳)でした。陸軍士官学校に在学中の士官候補生でした。職業軍人を目指していただけに、敗戦はショックでした。家族はまだ上海から引揚げてこないし、悶々とした気持ちでの五島での生活。本当に精神的に惨め極まる時でした。
当時、20歳以上の人には、たばこの配給と言う制度があり、私も20歳になって、配給を貰うようになりました。タバコの葉と巻く紙を貰い、自分でそれをまいてつくるのです。精神的に参っていた時だけに、その時のタバコの味は忘れる事は出来ません。それからタバコに嵌っていくことになりました。金鵄、ゴールデンバット、憩、ピースと渡り歩き、最後に安定したのが両切りのピースでした。一日に、50本入りのピースの缶2個、即ち一日100本をずーと吸い続けてきましたが、平成5年胃がんの手術の為の入院の時、野田先生からタバコは止めてくださいと言われました。入院しようと言う時に、博多から兄、新二が急に亡くなったと言う電話が入り、入院を一日遅らせてもらい、博多に飛んで行き、最後のタバコを立て続けに吸い、皆がビックリするほど吸い続けた覚えがあります。名古屋に戻り、入院してそれからはずーと禁煙を守っています。普通、禁煙は困難であると言われていますが、もう10年以上禁煙を守っていますから大丈夫とおもいます。途中で何度も吸いたいと思った事もありましたが、止めると決心した以上絶対に吸わないと言う信念を持てばやれるんだと声大きくして言いたい気持ちです。タバコに関しては、自分を誉めてやりたい気持ちです。タバコを止めたい人はいませんか?


■★まっと★のコメント
お父さんもきっと意識はしなかったのだと思うのですが、昭和20年8月15日はやはり『敗戦記念日』なんですね。職業軍人を目指した父・徹ならではの言葉なのかもしれません。長い年月のうちに、今では『敗戦記念日』という言葉を使う人は少なくなっていると思います。どれほどに父・徹が国のために軍人としてその若い力を注ごうとしていたかと言う現れでしょう。『終戦記念日』となった昭和20年8月15日は父・徹の潜在的意識の中で『敗戦』という形で青春の1ページに残像が記されているのですね。若く職業軍人へのエリートコースを歩んでいた父の夢はその後の『惨め極まる五島での生活』と共に傷跡を深めていったことでしょう。
二十歳以上の人にタバコの配給があったと言うことは知りませんでした。その後、いろんなタバコを渡り歩いてショートピースに落ち着いたんですね。
あの、胃がんの手術によって完璧にタバコをやめたわけですが、実際にやめられるとは思っていなかったです。自分もタバコさえ吸わなければもう少しお金もたまるのでしょうが、なかなかできずにいます。いつかやめることができる日が来るのでしょうか?


■姉・敦子のコメント
お父さんの記憶が年の所為でいいかげんなのではなく、お父さんは昔から、過ぎた事はすぐ忘れるタイプでしたヨ!よく言ってたじゃぁかりませんか、前を向いて進んでるから過去は関係無いとか・・・・・・でも、過去があるから今があるんですよね!
最近のヒヤシント物語を読みつづけて本当にそう思います。いろいろな物事の積み重ねで、現在こうして生きているのだなぁ~って。
そうかぁ~お父さんも煙草止めた後何度か吸いたいと思ったんだぁ~。健さんもすっかりタバコ止めてます。

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Chinto物語 その45 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.45)
信州大学は、たしか2年生から伊那に変わったんだったよね。引越しで伊那まで行ったような気がします。我が家としては、同時に2人が大学生となったので、学資の仕送りで苦しい火の車状態のときでした。しかも孝君はお金の掛かる音楽大学だし、信州は国立だが家からは通えないから下宿ですし、そうそう思い出した。敦子さんが信州に合格したとき、名城大学にも合格していて、信州は国立二期で合格発表前に名城の方の入学金を納めなければならず、大金を納めてからの信州の合格通知だったので、どうしょうかと本人は随分迷ったようですが、信州に行くのが当然との一声で決心したようでしたね。名城に行ってたら、健二君ともお会い出来なかったでしょう。神様はちゃんと見越しておいでですよね。
伊那で決めた下宿、それからもっと安いとこに引越しましたよね。そこが健二君と同じアパートだったこともあってお2人は親しくおなりあそばされました。更に、敦子さんが、交通事故かなんかで顔をやられて入院。健二君に本人が電話を掛けて知らせ名古屋まで彼が飛んでくると言うハプニングもあり、ますます親密度が深まったと想像しています。鎌倉のご両親にも挨拶に行き、昭和56年4月25日札幌の富沢司教様の司式で小林社長夫妻の仲人で結婚式をあげ、二人は、北海道の牧場へとまいりました。それ以来、道内をあちこちと移り、札幌に定住するようになり、お仕事も保険家さんとなりました。札幌の二人とは、毎年,年中行事として、ハワイであうことにしております。今年も行きますよ。次回は、煙草の話を一寸。


■★まっと★のコメント
今回も訂正をひとつ・・・・・。姉・敦子が名古屋で交通事故にあい、お義兄さんに電話したのは★まっと★です。父と母が医者に呼ばれているとき、姉の病室に入った★まっと★は姉から健二さんに電話して欲しいと言われ、当時は携帯電話もなかったので、病院中で10円玉をかき集めお義兄さんのいる鎌倉に電話しました。事故は朝、8時13分ごろの出来事でしたが、その日の午後には鎌倉から名古屋にお義兄さんが駆けつけてくれました。姉の顔は通常の2倍ほどにも腫れ上がり、痛々しい姿は今でも忘れることができません。また、事故を起こした場所に車が放置されているので、その車を路肩に移動するように警察から言われ、その大役を仰せつかってしまったのはなぜか★まっと★でした。名古屋市内御器所から西へ進み、東郊通二丁目の交差点(片側四車線)付近に事故車は放置されていました。姉の車はセリカ1600STのモスグリーン。当時、とても流行っていた車です。そして、右折しようとした姉の車の助手席側ドアに逆方向からの直進車がかなりのスピードで突っ込んだようです。マニュアルの車、ギアのところまで助手席のドアが入り込んでいました。助手席に人が乗っていたら、即死だったと思います。そして、助手席ドアの窓ガラスが割れ、姉の顔を切り裂きフロントガラスは粉々になり、姉の顔の傷口に埋まりこんだのでしょう。運転席には割れて粉々になったフロントガラスの破片だらけでとても座れる状態ではなかったのです。トランクに入っていた車カバーをシートに敷き、その上に座りました。エンジンはどうにかかかりました。そしてハンドルに手をかけたとき、表面がかさぶた状態になった姉の血液が大量に付着していて★まっと★の手は真っ赤に、そして、ハンドルをきるにも手がズルズルと滑ってしまって、ほんの数十メートルの移動をしただけですが、★まっと★は涙が出てきて悲しくなってただ、ヒクヒクと項垂れるしかできませんでした。『どうしてうちのおねえちゃんが・・・・・』と、何度も神様に尋ねました。どれほど痛いのだろう?どれほど辛いのだろう?しかし、★まっと★がいくら心配しても姉・敦子は弟の★まっと★にだけ、健二さんを呼んで欲しいと声にならない声でこっそりと言ったのです。シスターコンプレックスだった★まっと★もこのときに姉が必要としているのは家族の誰よりも、お義兄さんであることを知らされました。一寸悲しかったけど、姉が自分にだけ頼んでくれたことを弟として何とか全うしなくてはと自分を奮い起こしました。しかし、何度、鎌倉の健二さんに電話しても誰もいらっしゃらない。かき集めた10円玉を握り締めて何度も鎌倉に電話しました。そして、ようやくお義兄さんに連絡が取れたのはお昼に近かったと思います。そして、午後4時半にはお義兄さんは名古屋の姉の病院に来てくれました。このとき、姉・敦子のなかではもう福山の家族よりも高橋健二さんのほうが優先順位が高くなっていることを心のなかに刻んでおきました。それから数年後、姉は健二さんと結婚するわけですが、★まっと★には反対する理由は何もありませんでした。でも、お義兄さんが名古屋に来て福山の両親にプロポーズの旨を伝える際に、★まっと★を交えて作戦会議を開いてくれたのは一寸うれしかったです。★まっと★にしてみても反対する理由も何もありませんから、ひたすらこの婚約がうまくまとまることを望んでいました。考えてみれば、福山の両親もこの事故以来、きっと★まっと★と同じように健二さんが後に姉・敦子の結婚相手になることを暗黙のうちに知らされていたと思います。
実はこの姉の事故の当日、母・澤美は姉の看病で病院に泊まりこみ、父・徹、義兄・健二、★まっと★の男三人は、なんと近くの餃子屋さんで餃子を食べ、ビールを飲んで帰ったのです。しかも、帰宅途中には三人でパチンコに出かけたのも事実です。なぜでしょう???詳しくは覚えていませんが、とにかく、父、義兄、★まっと★にとって、それぞれに長い一日であったのは事実です。母の一日は病院で姉と共に、そして、泊り込みの看病だというにもかかわらず、男三人は現実を逃避したかった部分があるのでしょうね。母・澤美は勿論、いい顔はしませんでしたね。気持ちはわかるけど、男って弱い生き物なんですよ。


■姉・敦子のコメント
ヒヤチント物語!スゴイ超特急ですねぇ~。今日は訂正させて頂きます。大学時代の記憶はちゃんとあるから・・・ネ!事故の時、鎌倉に電話したのは、タクリンです。事故当日、私は起きれる状態ではなかったのでタクリンに頼んだ時のことをはっきり覚えてます。それが頼めるのが、一緒に育った姉弟なのでしょう!!!タクリンは快くすぐ電話してくれましたよね!
ラブレターをたくさん破ったのはこれで帳消しにしてあげましょう!・・・・・・ナハッ・・・・・・
健さんは、朝からパチンコにでも出かけようかとしてた時で、たまたま、家にいたようです。
(健さんは不良でしたマル)
車の移動の描写は、すっごくリアルで直木賞ものだと思いました。なんたって、事故を起こした当人の知らない世界でしたしぃ~。当日はだた寝てるだけで何もしてないので・・ハイ!
どうも、皆様、ご迷惑をおかけ致しました。つくづく、ペルテスといい、事故といい、まぁ~皆を振り回して生きてきた人生だった事を只今実感しております。家族の愛があって今の私があるのだと本当に思います。タクリンありがとう!!!!!
健さんは涙を流して(?)読んでましたヨ!でも、タクリンの記憶力には感心しておりました。健さんは、覚えてない事がいっぱいらしい!!!!!

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Chinto物語 その44 [Chinto物語]

あともう少しでこのChinto物語も終了です。たくさんの皆さんに読んで頂き、とてもうれしく思っております。
そして、本日、両親は54回目の結婚記念日を迎えます。

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■ヒヤチント物語 (NO.44)
ペルテス病で入院して、足を牽引し続け、片足の先が地面に付かないように器械で固定し、反対の方の足には、10cm以上もある歯のついた高下駄を履いて退院。潰れた関節の骨が正常になるまで、再生を待つのですから、気の長くなるような話です。良く4、5年もの長い期間我慢しましたね。ある時は苛められ、ある時は同情され、ある時は親切にされ、良く我慢した本人が立派でした。強い子にもなりましたよね。器械が外れた時は、嬉しかったと思います。南山の女子部に入学してから陸上部に入り、毎日走っていたのですから、完治して本当に良かったですね。神に心から感謝でした。
南山高等学校女子部を卒業して北大を受験、不合格。一年間、浪人して翌年、信州大学に
合格。そして、待望の、健二君との出会いが到来するのです。


■★まっと★のコメント
お話が超特急で展開していますね。確かにお義兄さんに出会ってからの姉・敦子はかなり明るくなったように思います。女子部時代、結構もてもてでしたが、当のご本人様はあまり★まっと★の先輩諸氏には興味を示されませんでしたからね。先輩諸氏から姉宛のラブレターを託された事も何度かありましたが、シスコン★まっと★は自分で読んで、笑いこけながらゴミ箱に捨てちゃったことが一度や二度ではなかったことを告白しなくちゃいけませんね。
しかし、そんな姉・敦子も浪人時代から恋をするようになったみたい・・・。そんな記憶があるのは★まっと★だけでしょうか?

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Chinto物語 その43 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.43)
敦子さん、これから述べる記述に間違いが有りましたら指摘してください。それによって私の記憶も再確認できると思いますからね。
桜山の2階の仮住まいから、やっと星が丘のアパートに引越し、アパートの前にあった遊園地で楽しそうによく遊んでいました。小さいくせにお転婆娘で、高い所が好きで、滑り台も滑り降りずに上から飛び降りるという勇ましい娘でした。それが後のペルテスの原因になるとはね?ショックで関節の骨が削られていき、痛くなるのがペルテス病とはね。お転婆も程々にしとかないととんでもないことになりますね。
2歳になる前に、弟の孝が星が丘の病院で誕生。その為、博多のおじいちゃん、おばあちゃんのとこに預けられたりもしましたよね。皆さんに可愛いがられながら成長し、本山の聖マリヤ幼稚園に入り、毎日、タクシーで通うという豪華な毎日、まさにお姫様でした。ところが、幼稚園で遠足に行き、帰ってきてから足が痛いと言い出し、はちや整形外科で診察を受けた結果、ペルテスと診断され即入院。幼稚園も中退。そこから苦難と思われる毎日が続いたのです。


■★まっと★のコメント
今回は間違いがないと思われます。ただし、敦子姫が生まれて★まっと★自身が生まれるまでの1年10ヶ月に関しては記憶どころか、この世に存在していないわけですから、♪まっと♪としてはコメントは控えさせていただきたいと思います。ところで、ペルテスと言うのは骨が削られる病気なんですか?てっきり、骨にひびが入る病気だと思っていましたが・・・。子供のときにそう聞いたように記憶しているのは間違いかな?


■姉・敦子のコメント
あまりにも昔過ぎて、記憶が無いのでよお分からんです。記憶のあいまいさは、父譲りぃ・・・・・だったりして・・・・・?ペルテスは確かに骨にひびが入っていたようですが・・・・?!
夏休みごとに帰省で福岡に行く汽車の中で、3段の寝台車で上がったり降りたり、飛び移ったりして遊んでて、落っこちてたんこぶ作ったの覚えてます。やっぱ、おてんばだったのかなぁ????


■母・澤美のコメント
生まれたときのデータです。
敦子さんは体重が2950グラム。孝さんは体重、3700グラム、身長59センチ、胸囲34センチ、頭囲35センチでした。頭の大きさに驚きました。口にあかあざがあって、取れるだろうかと随分悲しみました。お隣の小島さんがお産の時付いたんだからと慰めてくださいましたし、お医者さんも取れると言ってくださいましたが、1人で泣いたものです。
敦子さんのほうは体重以外はお医者さんのきろくがありません。敦子さんが生まれた時、私には可愛い赤ん坊でしたが、男の人(お父さん)は初めて見る赤ん坊で、感じ方の違いを初めてしりました。
ペルテスは、股関節がカリフラワーみたいに細かいひびがたくさん入る病気で、完治するには時間がかかると言う事でした。
2人共、お腹に居る時、ちゃんと指がついていて五体満足に生まれますようにと、祈ったものです。元気な子供達で幸せです。


■★まっと★のコメント
姉・敦子と比較しても、その大きさがはっきりとわかりますね。最近は赤ちゃんも大きいらしいですが、当時ではかなり大型の赤ん坊だったのでしょう。
口のあざの話は母・澤美から聞くことはありませんでした。初めてその話を聞いたのは、平針に引っ越してから、小島さんのおばちゃんのところに一人で遊びに行ったとき、おばちゃんから聞きました。心配かけたんだなぁと記憶には全くないことなのに何故か罪悪感に思えたことを覚えています。
とにかく確かに五体満足ですが、ちょっと満足どころか身体がでかすぎたのは、その後40年以上たってもかわりませんね。できれば、指をもう一寸長めに生んでいただければ★まっと★的にはうれしかったように思います。しかし、健康であることが勿論、一番大切なことなんですよね。

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Chinto物語 その42 [Chinto物語]

■ヒヤチント物語 (NO.42)
今日から、札幌の健二・敦子のお二人さんに話を移します。先ず、敦子さんの生い立ち。1955年5月5日に結婚した福山家(徹・沢美)に翌年,1956年(昭和31年)4月27日待望の赤ちゃんが誕生致しました。顔のくしゃくしゃした小さな可愛い女の子でした。正に、神様から授かった宝物と言う感じをうけました。これが初めて対面した時の第一印象でした。
当時は桜山の一軒家の二階に住んでいました。生まれたのは聖霊病院でした。直ぐに幼児洗礼を受け、マリア・ゴレッチイ。 名前は?決める時、アア、アイ、アウ,アエ、アオ、アカ、----と順番に唱えながらそれに子をつけて、アツまで来た所でコレデイイワということになり敦子と決定しました。退院してからの赤ん坊を抱えての二階の仮住まいは、母さんにとっては大変なことのようでした。そして間もなく、星が丘のアパートに引越しました。4階で、向かいが小島さんでした。(住んでたアパートはもうないよ)子供時代を星が丘で過ごした敦子さんにとっては懐かしい思い出深い場所だと思いますが、楽しい事ばかりではありませんでしたよね。敦子さんにとっては苦しみの時代だったと思いますが、今振り返って見ると、そういう時代もあったかなという位のことかな?それは、今、健二君という伴侶がいて幸せを感じれるからで、当時は、本人にとっては辛い事だったと、親の私共は真剣に思うほどです。ペルテスてなんでしょうか?


■姉・敦子のコメント
ヒヤチント物語では、しわくちゃ赤ちゃんが登場ですね!「神様から授かった宝物と言う感じをうけました。」がお父さんらしいと思いました。この時、父と娘の深ぁ~い絆が生まれたのですね!
娘は、何でかすごぉ~いお父さんっ子でした。ちっちゃい時、お父さんが好きで好きでたまらなかったのです。くっついていくと、煙草の匂いがして、ある程度の年になるまでそれが、お父さんの匂いだと思っていました。懐かしいなぁ~。
何度もいうけど、子供時代辛くなかったヨン!ハイ!


■★まっと★のコメント
ふむふむ・・・・話は前後になりましたが、★まっと★が生まれる前に勿論、姉・敦子が生まれていたわけですね。福山家の第一子ですからね。しわくちゃであろうが、大切な長女の誕生です。この名前の付け方には甚だあきれてしまいますが、これも父・徹らしいのかもしれませんね。姉・敦子はいつも言っていますが、子供時代、つらくなかったと・・・・。しかしながら、それをシリアスに受け取りすぎた兄弟や家族は一寸かわいそうだったかもしれませんね。まぁ、無事にすべてが終わり、今の人生を歩めることはこういった細かい布石もきっと糧になっているのだと思います。人生ってすばらしいです。


■姉・敦子のコメント
まぁ~どこまでもどこまでものろけが続くことでぇ~・・・・・・中睦ましいご夫婦なのは充分わかりやしたです。ハイ!!!これからも、支え合いお幸せにぃ~。我家も負けずに頑張ろっと!
名前はどういう付け方だったにせよ、結構自分の名前気に入ってます。でもさぁ~敦子じゃなかったら、めぐみだったと聞いたんだけど・・・。めぐみの「メ」まで行かなかったはずなのに???んんん七不思議?


■★まっと★のコメント
はいはい。。うちはあったかい夫婦でございます。
あれれ・?????★みどり★じゃなかったっけ・??ちがったかな?いかがでしょう??
母君の記憶をお話いただくしかないようですね。

nice!(3)  コメント(1) 
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