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古い原稿が出てきました。 [『ぶん★文★ぶん』]

★カレン★が職場のオフィスで見つけたのですが、とても古い原稿が出てきました。
1998年2月28日の講演のためのスピーチ原稿です。14年も前の原稿。今とはまた異なるのかもしれません。
原稿そのものもB5用紙サイズですし何となく時代を感じますね。最近ではB5サイズは殆ど遣うこともないし・・我家には在庫が無いほどです。全てA4になってきましたね。
折角出てきたこの原稿・・・★カレン★の記録として残しておこうと思います。このブログに『ぶん★文★ぶん』として記載しておくと記念になりますね。

こちらの講演は尾張旭市の先生ご父兄に向けての講演会だったと記憶しています。自分も出席しました。タイトルは『12年間の私の日本での生活』となっています。例えば、いま、『27年間の私の日本での生活』というタイトルで原稿を作り始めたら、また異なった視点で、異なった感覚で日本を客観的に見ることが出来るのかもしれませんね。


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1998年2月28日

12年間の私の日本での生活
福山 カレン


只今ご紹介頂きました福山カレンです。私が尾張旭市市内の3つの中学校に勤務するようになってから4年の月日が流れました。私の日本語はまだまだですが、今日は私がどうして日本に住み、私が感じることや、外国人にとって日本に住む難しさなど、色々とお話をしたいと思っております。

『国際化』と叫ばれるこのごろですが、先日行われました長野オリンピック、近い将来2005年には、ご当地にて開催が決定いたしました万国博覧会など、世界が小さく、また近く感じられるようになってまいりました。
『国際化』という言葉自体が大変抽象的で、真の意味合いについてはなかなか説明の付く言葉ではありません。しかし、日本は経済面でも非常に世界の中心的存在であり、世界の流れから取り残されることはなんとしても回避しなくてはなりません。私は職業を持つ一人の女性であり、妻であり、芸術家であり、教育者でもあります。私がお話しすることはあくまでも一個人の意見であり、それを皆さんに押し付けるものではありません。私自身の意見、そして助言としてお聴きいただければ大変うれしく思います。

私はイギリス・イングランド北部、西ヨークシャー・ブラッドフォードという町で生まれました。小説『嵐ヶ丘』や『ジェーン・エア』などで有名なエミリーブロンテ三姉妹の故郷でもあります。人間の数よりも羊の数のほうが多く、広大な丘陵地帯が広がり、のんびりとした風光明媚な町です。高等学校まで地元で暮らしました。この頃は外国といってもヨーロッパへの修学旅行以外には訪れたこともなく、イギリスも日本も同様で島国なので、外国を訪れるような必要性もありませんでした。ところが、大学進学がロンドン市内の音楽大学に決まり、そこから私の人生は少しずつ変わっていったように思います。私は地元、家族の元を離れるのがつらく、ロンドンで生活するようになってもホームシックで毎晩のように枕を濡らしていました。私は音楽の専門的な勉強をしたかったので大学生活そのものには全く不満は無かったのです。のんびりした田舎町で育った私にとって、ロンドンの雑踏や人口密度の濃さはショックであり、脅威であったのです。また、下宿に帰宅しても家族はなく、それはそれはつらい日々を送りました。休暇になってヨークシャーに帰るのだけが唯一の愉しみで、休暇が終わり、ロンドンに戻るのがまた辛く涙が止まりませんでした。18歳の頃の辛い思い出です。

そして、ロンドンでの生活にも少しずつ慣れてきて、一年経った9月に主人に出会いました。私の知らない国、日本からの留学生で大学院の一年生として私の通っていた音楽大学に入学してきたのです。日本で大学学部を卒業し、英国に来た主人は年齢もかなり上で、当初の私にとっては全く関係の無い存在でしかありませんでした。また、私は日本のことは教科書に出てくる程度のことしか知識が無く、名古屋という町など知る余地もありませんでした。主人と知り合っても長い期間、恋人同士というよりは友人関係を続けておりました。その後、名古屋という地名を知ったのも、ソウルオリンピックが開催地として決定したときに名古屋も開催候補地として大変有力でした。落選したときに大きく新聞で報じられ、初めて名古屋という地名も知ったのです。しかし、その頃でもまさか自分がその名古屋という町に住むなんて考えたこともありませんでした。

主人が大学院を終了する年のバレンタインデーに主人から交際の申し込みを受けました。その頃、もうすでにお互いの気持ちの中には恋人のような感情は芽生えていたように思います。主人もお互いの気持ちを確認したかったようです。私は『考えさせて!』とじらしながらもOKをだしました。学生同士の交際ですから、勿論結婚など眼中にはありませんし、いつかは主人が日本に帰国すると同時にこの恋愛も終わってしまうのかなと考えるしかありませんでした。

現在、主人は私と同じようにピアニストであり、教育者であり、実業家です。当時、大学院を修了した主人は英国に残り、音楽大学の教授のレッスンを受けたり演奏活動をしたりで、ロンドンで悠々自適な『プー太郎』生活を送っていました。私はこの人は何を考えて生きているのかと不安になりました。しかし理性的に考えれば『プー太郎』の彼氏では物足りないものの『感情』は理性だけではコントロールできるものではありません。そのまま恋愛関係は進行しました。

そして、一年後、主人は主人のお父様から一通のお手紙を受け取りました。それは『日本に帰って来い。』というもので、私もこの恋が始まるときに覚悟はしていたものの真剣に来るべきときが来たと思いました。
そして、一ヶ月ほどして主人は日本に帰りました。それからは毎日手紙を書きました。今でこそ、『遠距離恋愛』、『遠恋』という言葉がありますが、当時はまだそんな言葉もありませんでした、成就しないかもしれない恋のために、地球の裏側の日本に私は毎日、毎日手紙を書きました。ところが、うちの主人ときたら、一ヶ月に一度くらい返事をくれるだけで何の音沙汰もなく、気が向くと国際電話をかけてくるぐらいでした。なんとも薄情な人だと情けなくなりました。

そして『遠距離恋愛』が一年ほど経った頃、そんな薄情な主人も彼の両親にはイギリスに恋人を残していることを話してくれていたようです。主人の家族から日本に招待されました。1985年の春のことです。その頃、私ももう学部を卒業し大学院も修了し、ロンドン音楽院でオーケストラ・マネージャーの仕事についていました。イースターの休暇と有給休暇を利用して二週間のホリデーで主人の国、日本に来ました。

季節は桜が満開でとても美しく暖かい三月でした。主人は仕事でニュージーランドから成田の新東京国際空港に到着し、同じ朝、私もロンドンから成田に到着しました。
一年ぶりの再会でした。そして成田のリムジンバスのバス停で主人は私にプロポーズしてくれました。勿論、私もプロポーズは期待してましたが、もう少しロマンチックなシチュエーションのプロポーズを想像していました。バス停でせかされるようにされたプロポーズはなんともあっけないものでした。

そして、主人の両親に温かく出迎えていただき、主人の両親には私から結婚の意志を表しました。主人の両親は大変喜んでくれました。私自身もとてもうれしく思いました。

二週間のホリデーは夢のように幸福なものでした。そして、あっという間に過ぎていきました。

イギリスに戻り、私の両親に報告をしました。勿論、私の両親は日本を訪れたことなど一度もありませんし、ヨーロッパでさえも旅行したことの無いほどでしたから、そう簡単に理解はしてもらえませんでした。
主人が婚約指輪を持って英国にきてくれたのはそれから二ヶ月ほどしてのことでした。主人は私の両親の目の前で私に婚約指輪をくれました。両親も『おめでとう。』を言ってくれました。そして、主人が日本に帰国してから私の本当に辛い日々が始まったのです。

両親は私に主人からの婚約指輪を身につけることを赦しませんでした。そして、この婚約には賛成は絶対に出来ないと言い出しました。私は自分がどうすれば良いのかわからなくなりました。辛く悲しい毎日でした。日に日に体重も落ち、考えて考えて、考え抜いた挙句の果てに、1985年10月、私は主人に『今までのことは無かったことにしよう。』と手紙に書きました。私にとっては人生の中でたった一度の最大のギャンブルでした。

もし、主人に本当に『心』があるのならきっとイギリスに飛んできてくれるはずだと信じていたから、その手紙を書きました。私がこれだけ辛いときに助けてくれない人なら一生添い遂げることなど不可能だと思ったからです。主人はすぐに英国に飛んできてくれました。
そして、主人は日本への航空券とウェディングドレスをプレゼントしてくれて日本に帰っていきました。イギリスに一人残った私は自分の人生、祖国、家族、友人、そして主人の狭間で苦しい毎日を送りました。私の大切な両親を一度だけ裏切ることになる。でも、私が幸せになることは、両親の幸せにもなるはず。考え尽きることはありませんでした。時間はかかるかもしれない。でも、いつかは両親にも解ってもらえるはず。自分を信じて、そして、主人を信じて、そして両親を信じて、1985年12月20日、日本にこれからの自分の全てを託して飛行機に乗り、来日したのです。言葉もわからない、習慣や風土も異なるこの国で自分がどうやって生きていけるのかもわかりませんでしたが、この国と主人に全てを賭けました。

来日して一週間経った1985年12月28日、南山カトリック教会で私と主人は結婚しました。皆さんもご存知の通り、イギリスはカトリックの国ではありません。主人はカトリック信者ですが、私はイギリス国教(Church of England)の信者です。アイルランドの内戦もこの二つの宗教が源になっているのですから、宗教の違いも大きな壁になることがあるのです。

主人の父が南山学園・南山中学高等学校にて理事をしておりました関係上、翌年4月からは南山中学高等学校男子部にて英語科教員として教壇に立つチャンスを与えられました。ここで初めて音楽以外の仕事に付いたわけですが、私はこの英語教員の仕事に取付かれてしまいました。英語教育に魅力を感じた私は色々なことを勉強し、より良い授業が展開できるように励みました。そして、南山中学高等学校男子部から国際部(現在:南山国際中学高等学校)に転属となり、帰国子女のための英語教育に没頭しました。

帰国子女のための学校では、両親の仕事などで海外での生活が長く、日本の学校での通常の生活になじめない子供達や、日本人であるにもかかわらず、海外生活が長く、母国語であるはずの日本語よりも他の言語を得意とする子供達を対象としています。
ですから、私と同じように英語を話す日本人の子供たちに英語を教育するということが私の仕事になりました。日本の国語の教員のような仕事です。教える英語は非常にハイレベルで私自身も勉強が必要でした。

その頃、主人も南山国際中学高等学校で音楽教員として勤務しておりました。ですから、家族でも職場でも私と主人は一日24時間をともに生活していました。主人の父は生まれながらの教育者でしたから、学園理事の仕事をしながらも教壇を離れることはなく、一週間当たりかなりの授業数をこなしておりました。生徒の中には一日に父・福山徹、主人・福山孝、私・福山カレンの福山親子三人の授業を受けるものも居ました。考えてみれば同族会社のような学園になってしまったわけです。そうなってきますと、主人の立場からは、いくら南山学園で良い仕事をしても他人の目には『親の七光り』にしか見ていただけない部分が出てまいります。主人もかなり悩んでいたようですが、主人の父はその頃には学園理事と同時に『学監』という役職についておりました。その父が定年で退官するときに主人も私も南山学園を離れることに決めました。それが今からちょうど4年前(1994年)のことになります。

その後、主人は音楽の演奏活動を続けながら、名古屋市内の専門学校などで英語講師を務めています。主人は私が働くことを歓迎しています。南山学園を離れて私が職場を探しているときに『アルティア』という会社に出会いました。この会社の仕事は日本全国の行政、教育委員会に『外国人教員による英語の授業を提供する。』ことです。そして、私はこの尾張旭市と出会ったのです。教育の現場に於いては私達外国人教員はあくまでもALT:外国人教員助手という立場で、厳密には教育者としては認められていません。しかし、私はこの四年間で多くの出会いを持ち、色々なことを勉強しました。そして、この尾張旭市での仕事に打ち込んできました。自分なりに満足の行く仕事をしてきたつもりですし、協力できる範囲では全ての力を尾張旭市内の三つの中学校の先生方とともに努力してきたつもりです。至らないところもたくさんあったかもしれませんが、私は手を抜いた仕事は出来ない人間ですから、一生懸命自分の仕事をこなしてきました。

自宅が名古屋市天白区の平針にございます。出勤には少々時間がかかりますが、車の運転も大好きですので気になりません。そして、この尾張旭が大好きになりました。
こうして私は今、尾張旭のALTとして勤務しているのです。


ここで、外国人が日本で生活する難しさについてお話したいと思います。
まず、私と同じように外国人教員として滞在する場合ですが、私立の学校とは異なり、多くの行政・教育委員会は外国人個人との契約は避ける傾向があるようです。それは若い外国人教員が契約途中で帰国してしまったり、外国人が就労するための労働許可申請は専門知識を持っていないと困難な部分が非常に多いからかもしれません。
私の場合は日本人配偶者なので、労働許可申請の必要はありません。当然、永住申請は『曙』や『武蔵丸』のような外国人力士ならともかく、私のような場合、いつになったら申請許可が下りるのか、誰にもわかりません。私は昨年春に申請書を初めて提出しましたが、一年経とうとしている今になっても返事はまだ来ていません。そのため滞在期間延長申請を三年に一度、繰り返し行わなければなりません、その都度、主人の納税証明書や修了証明書などたくさんの書類を集めなければならないのです。
これは精神的苦痛にもなりますし、かなり面倒な作業になります。私達ALTは公務員ではないので年休や有給休暇は皆さんの想像するほど取ることは出来ません。ビザの取得のために入国管理局を訪れるのにも私の会社から年休を取ることは出来るのですが、仕事の内容、教育者であること、授業進行などの面を考えましても、そう簡単に丸一日の休みを取ることは出来ません。ですから半日だけの休みをいただいたり、数時間だけの休みをいただいて、入国管理局に申請の手続きをするよりほかには道がないのです。10年ほど前は申請と同時にビザの取得が出来ましたが、現在では申請して二週間ほどしてから取得という形式になっているので、1回の申請でも2回、入国管理局を訪れなくてはならないのです。それは学校に対しても非常に迷惑なことですが、日本のシステムなので仕方が無い部分でもあるのです。

ここで入国管理局でのエピソードをお話したいと思います。
私がまだ尾張旭市に来る以前のことですが、主人も私と結婚しなければ入国管理局などに足を運ぶ必要は全く無かったのです。今日ここにお集まりの皆さんの中にも入国管理局がどんなところで何をしているところなのかご存じない方も多いかもしれません。日本人である皆さんには全くと言ってよいほど無関係な場所です。入国管理局は法務省の管轄で、日本人の皆さんもパスポート申請の時にはお世話になっているはずです。また、出入国の際には入国管理局のスタンプをいただくはずです。外国人が日本に入国する時には一般的にはツーリストビザとして、半年間の滞在期間が与えられます。私も1985年に初めて来日したときにはこの半年間のツーリストビザで入国しました。しかし、主人と結婚して旅行者ではなくなったわけですから、滞在資格を『旅行者』から『日本人配偶者』に変更しなくてはならなかったのです。当然、その頃の私は日本語が全く話せませんでしたし、主人無しでは入国管理局を訪れるのは不可能でした。そこで主人と私は入国管理局を初めて訪問したのです。そこで見たものは法務局の職員達に怒鳴られる外国人。一瞬、ここは時代錯誤か、軍国主義かと疑う気持ちになりました。私たち西洋人に対してはまだまだ対応は良かったのですが、当時から騒がれるようになった『ジャパ行きさん』と呼ばれる人々の日本への流
入、在日の韓国や朝鮮の方たちに対する日本人職員の対応ときたら横柄この上ないものでした。主人も驚いて言葉を失っていました。パスポートといえば外国に於いては命の次に大切なものにもかかわらず、デスクカウンターに叩きつけたり、私自身のパスポートも折れ曲がって返ってきたこともあります。なんとも物々しく、人権が無視されたような雰囲気がありました。ここ数年『サービス向上』をモットーに若干の改善は見られるようですが、当時のことを思い出すと身の毛もよだつ思いがします。
私には福山カレンという立派な名前があるにもかかわらず、人を囚人のように番号で呼び、言葉一つ一つも投げやりで親切のかけらさえ見ることが出来ませんでした。外国人の多くが日本語を不得意としていることは理解に難しいことではありません。入国管理局内は日本語以外の説明やサインや看板は殆ど無く、私も主人が居なかったら泣いて帰るしかなかったと思います・
そして、三年後、主人は仕事で私のビザ更新に同伴することが出来ず、主人の母が私と一緒に入国管理局に来てくれました。主人がその対応の悪さを事前に説明したのですが、主人の母は日本にそんなところがあるはずはないと信用しようとはしませんでした。そして、現状を目の当たりにした母は唖然とし、怒りと落胆でとてもショックを受けました。『私は60年以上も人間をしてきてこんなに失礼を受けたのは初めてだ。』と息子である主人に力説したものです。母は『私は新聞に投書する!』と言い出し、原稿を書き始めました。主人は『そんなことしても何の得にもならないから。』といって、母が新聞社に投書することをなんとか阻止しました。母は憮然としていましたが、それも嫁である私のことを思ってのことであり、母の愛情かとも思っています。

そして、昨年の春、私が滞在期間延長申請と永住申請を同時に行ったとき、さすがの主人も堪忍袋の緒が切れてしまったようです。10枚にわたる苦情の手紙を入国管理局に出したのです。私はそこまでしなくても・・・・と思いましたが、主人は納得できなかったようです。主人の苦悩の手紙は全て固有名詞で担当された人の名前や私の名前、主人の名前や住所も匿名にはせず、かなり大胆な手紙を書いたようです。その手紙のために私のビザに影響してはと主人も手紙の最後に『このことが家内のビザ取得に影響の無いことを切望します。』と書き加えていたようです。申請から一年が経過しましたが永住申請に関しては主人の手紙が影響しているのかもしれませんね。
主人が手紙を書いてから数週間後、入国管理局総務課より一通の返事の手紙が送られてきました。それは謝罪文とも読み取れますが、結局はおやかた日の丸的な文面で、局長が新しく変わり、『サービス向上』をモットーにがんばっているので、これからも色々とご意見をお寄せくださいとのことでした。国際化と騒がれる昨今です。日本の玄関口を取り仕切る入国管理局にしては甚だ国際化とは何なのか取り違えているように思えてなりません。

今までに私は日本のお役所のことを色々とお話しましたが、日本で生活しておりますと本当に色々なことが日々起こるものです。
生活の中で私が経験する色々なエピソードについてお話したいことがあります。私が来日した13年も前の頃はまだあまりにも外国人が日本には住んでいませんでした。だから日本の皆さんもあまり外国人、特に西洋人には出会う機会が無かったように思います。ですから、笑ってしまうようなことが本当にたくさんありました。
例えば、スーパーマーケットに買い物に行くと子供達が『外国人!外国人!』とか、『外人!外人!』と、よく指をさして言いました。子供のすることだからと思ってあまり気にも留めませんでしたが、ひどいときにはお母さん達がお子さんに『ほら、見てごらん!外人だよ!』といって指をさすのには甚だ驚きました。私は見世物のように指を挿して見上げられていました。なんとも自分のことが哀れに思えてなりませんでした。この程度のことは日常茶飯事で車を運転していても結構面白いことがあります。主人が運転していて私が助手席に居るとします。交差点の信号で信号待ちをしているときに隣の車を運転している人が私が外国人だとわかるとわざわざ車を前に少し出して、運転している主人が外国人かどうか確かめようとするのです。私もコレには噴出してしまいました。人の車の中を覗き込むようにして『なぁんだ、日本人か。』というような顔をするのです。最近では茶髪の若者が増えてきたので、私もかなりジロジロと見られるようなことはなくなって安心して出歩くことができるようになりました。笑い話のようなことですが、本当に毎日このようなことの連続でありました。おかしなことはコレだけではとどまりません。私はもうこの国に13年も住んでいるのですが、未だに皆さんと一緒に食事に出かけると、『お箸が上手ですねぇ。』とほめていただけます。しかし、13年も日本人の主人と一緒に生活していて、未だにお箸一つも使えないようでは日本人の妻は務まりません。日本の風土や習慣を習得することはとても難しいことですが、主人の両親や主人に支えられてここまで日本人の妻をできるようになりました。

結婚して新婚生活が始まったころ、主人が突然に私に対して厳しくなりました。それは今考えてみると主人の愛のムチだったのかも知れませんが、当時の私にとっては大変辛いものでした。和食の料亭や、居酒屋のお座敷に上がるときも主人は私に脱いだ靴を揃えさせました。どうして私がそんなことまでしなくてはならないのかと涙が出そうな気持ちになりました。しかし、そのようなことが続くと私もこの国で日本人の妻として生きていくために自分の目を見開いてどこへ出かけても失敗の無いように日本人の行動を観察するようになったのです。縁起でもないお話ですが、例えば、お葬式に出かけなくてはならないときでも、私はご焼香のあげ方も知りませんでした。主人は絶対に事前に私にどう振舞うか説明することはありませんでしたから、私は主人のすることを一生懸命後ろから観察して同じようにご焼香をあげました。これは大成功で恥ずかしい思いをすることもなくお葬式の会場を後にすることが出来ました。
しかし、私は主人や他の日本人の行動を観察することにも慣れ始めた頃、、今度は結婚式で大きな失敗をしてしまいました。何をしたかといいますと、その結婚式では主人と私はお仲人の大役をおおせつかったのです。普通一般的にはお仲人さんは黒の留袖で参列するのですが、私は日本人でもございませんし、教会式ということもありまして、自身のアイデンティティーも大切にしようと思いました、主人も賛成してくれたので黒のスーツでその結婚式に参列いたしました。そして、親族と参加者一同の集合写真のときに新郎と新婦、それぞれの隣に私と主人が着席させていただきました。
新婦は手にブーケを持っておられますし、親族の皆さんは皆黒の留袖を着ていらっしゃるので前列の女性の親族の方は手に扇子をお持ちになっておりました。私は初めての経験でもございましたし、手にはブーケがあるわけでもなく、扇子を持っているわけでもありません。写真を撮られるにもかかわらず、自分の手をどうすればよいのかわからなかったんです。そこで、隣の新婦、新郎の向こうに座っている主人に目を向けてみました。主人は握りこぶしを両手で二つつくり、膝の上に置いておりました。『あー!こうすればいいのかぁー!』と私は思いました。そこで、私も握りこぶしを二つ膝の上に置いて写真に納まったのです。写真屋さんも私が日本語が話せるかどうか解らなかったのでしょう、何も仰ることは無かったです。
なんと、仲人さんの奥さん、握りこぶしとともに写真に永遠に残ってしまったのです。恥ずかしいエピソードの一つです。この結婚式の後にも何組かのお仲人を勤めさせていただいておりますが、膝の上で両手を重ね、写真に納まるようにしております。
他にも我家ならではの出来事は幾つでもございます。
英語にも方言はございます。しかしながら男言葉や女言葉などという区別ははっきりしたものがあまりないのです。私が日本語を少しずつ理解できるようになったころ、私が参考にした日本語は私に一番近い存在である主人の日本語でした。ですから、私は自分のことを『ぼく』とか『おれ』と呼ぶようになってしまいました。主人は最初は気にしていなかったようですが、私が主人の友人の前で『ボク』と言ってしまったときには主人も恥ずかしい思いをしたようです。それからというもの、主人は家では女言葉を使うようになりました。それは私が正しく主人の妻として、また福山家の嫁として日本語が使えるようにとの主人の努力だったのかもしれませんが、うちの主人ときたら、それがしっかり身に付いてしまったようで、それ以後、主人の日本語のほうがなんだか危ない人のようになってしまったのです。本当に色々なことがありました。

ある意味でうちの主人は要領のいい人なのかもしれません。また、ある意味で順応性があるのかもしれません。といいますのは毎日の日本での生活に於きましては車に乗り込むときでも私のドアを開けてくれたりすることは全くありません。デパートでエレベーターに乗るときも自分がさっさと先に乗り込んでしまう人なんです。私達夫婦は毎年クリスマスの季節には必ずイギリスに帰るのですが、イギリスではうちの主人、完璧なジェントルマンを演じる人なんです。車に乗り込むときもわざわざ助手席のドアまで来てドアを開けてくれます。どこへ出かけるときもレディーファーストを忘れることはありません。まるで、自分がお姫様にでもなったような気持ちにさせてくれます。勿論私の両親も居るわけですから良い婿を演じるために彼なりに気を使っているのかもしれませんね。
ただ、夢心地でイギリスでのホリデーを過して帰国した後は現実に引き戻されるようでとても悲しく思います。飛行機が日本に到着して一歩日本に入国した瞬間から彼は普通の日本人の男性に戻ってしまうのです。
男尊女卑的な感覚はうちの主人にはないと思いますが、私の文化であるレディーファーストというものは彼にとっては異文化にしか過ぎないのかもしれません、そんな主人もとても優しいところもあります。
先ほど、プロポーズのシチュエーションが成田空港のバス停で想像していたものとはあまりにもかけ離れて、あっけないものだったと言うお話をしました。イギリスでは男性が女性にプロポーズするときは方膝をついて両手を広げ婚約指輪を掲げ『Will you marry me?』と、丁度シェークスピアの『ロミオとジュリエット』のワンシーンのように愛の告白をしてくれるものです。私もそんなプロポーズを夢見ていましたが、現実はかなり厳しく、飛行場のバス停で『結婚してやるよ!』って言われただけでした。だから私は結婚してからも『プロポーズされていない!』といい続けていました。
結婚して10年目を迎えた私の誕生日のことです。私は二月生まれですが、とても寒がりなのです。ですから冬はストーブの子守をしているときが一番の幸せを感じます。
その日、主人が仕事から帰宅したとき、私はいつものようにストーブの子守をしていました。主人が一言、『目を瞑ってごらん。』言ったので私は目を瞑りました。
そして、主人が『ここは10年前の成田空港のバス停だよ!』と言いました。目を開けると方膝をついて両手を広げた主人が私の前に居ました。主人は『Will you marry me?』といって、そっと私の指にスイートテン・ダイヤモンドの指輪をはめてくれました。それから私は二度とプロポーズの愚痴をこぼしたことはありません。やはり、そんな優しい主人ですから国際結婚の困難も二人で乗り越えていけるのかもしれません。

国際結婚のカップルは最近増えつつありますが、日本人女性と外国人男性のカップルはその反対即ち、私達のように外国人の女性と日本人の男性のカップルよりも上手くいく可能性が高いといわれています。それは日本の伝統的なものの考え方でもあった『男尊女卑』的な感覚にはレディー・ファーストの文化で育てられた私達西洋人女性達がなかなか耐えられないからだと思われます。また、その逆に日本の文化で育った女性にしてみると、女性を大変大切にする西洋の文化の中で育った男性に優しくされることを教えられ幸福をつかむ女性が多く居るようです。国際結婚といっても東洋人同士の国際結婚もあれば西洋人同士の国際結婚もあります。人種を超えた国際結婚もありますので一言で国際結婚といっても本当に色々なパターンが見られるのです。しかし、あくまでも人間同士の結婚には他ならないのですが、どうしても特殊な目で見られがちなのも事実ですし、人種、国籍を超えての結婚ですから、風土、習慣、文化も全く異なり、そこに生じる困難はみなさんが想像されるよりもはるかに難しい部分もあります。
私達夫婦には子供がありません。私達は二人とも教育者であり、多くの子供達を見てきました。また、私達にも両親が居るように、私達の子供にとっては私達が両親になるわけです。母親として今ならば日本語も話せるようになりましたし、読み書きも随分できるようになりました。しかし、結婚当初の私は日本語の能力はまったくありませんでしたし、話せるようになれるには長い月日が必要でした。若さにまかせて子供が出来ていたらそれなりに母親業をこなしてきたのかもしれません。しかし、当時の私にはそれだけの余裕がありませんでしたし勇気もありませんでした。事実、私達の身近にも主人の先輩と結婚されたカナダ人の奥さんは子供を3人出産してノイローゼになってしまい、一時は帰国されてしまったケースも見てきました。また、その反対にドイツ人の奥さんは一人の男の子を出産され、ドイツ語と日本語のバイリンガルに近い状態に育てられ、奥さん自身も職業婦人を続けておられるケースもあります。このようなケースは非常にまれなことだと思います、主人が恐れていたのは子供が成長するにあたって、イギリスに住むおじいちゃん、おばあちゃんとロクに会話が出来ない孫になって欲しくないこと。そして、一番に母親として私の日本での生活を十分に習得していることなどの条件を考えたとき、私達夫婦にとって、子供の存在そのものの難しさの壁にぶつかったのです。いくら家庭で英語を使おうとしても、テレビやラジオ、友達との会話など全ては日本語で行われるのですから、英語も日本語も子供に100%を望むことはとても難しいことです。先ほどお話に出たノイローゼになってしまったカナダ人の奥さんの長女は小学1年生まで言葉が出なかったそうです。勿論、子供の成長はすばらしいですから、年月を経て克服できる部分はあるのですが。また、虐めの問題も考えなくてはなりません。子供が幼稚園に通うようになりますと、大人の目から見ますとハーフの子供達はとても可愛らしくまた美しく見えますが、子供同士の世界では自分たちと異なる子供、即ち虐めの対象になるケースも少なくないのです。幼児の世界ではみんなと同じであることもとても大切です。それは後の社会生活の中での協調性を養います。勿論、そこには成長とともに個性の出現が無ければならないのですが、子供達が始めて出会う社会生活、即ち幼稚園、保育園、または小学校などでの学校教育においてはいくら大人が可愛いとかきれいとか思っても、子供達の目には下手をすると宇宙人のようにしか映らない場合もあります。それは子ども自身のストレスを生むことにつながりますし、親にとっても辛いことになるのです。

大人である私自身でさえも、私にとっての外国:日本の社会の中で生活することは、自分が気が付かないうちに自分自身の精神面や肉体にかなりの負担をかけていたようです。昨年はじめて診断されたのですが、文化の異なる世界での生活が私の肉体に知らず知らずのうちにストレスとして蓄積され、心臓が十分に働かない状態だとお医者様に言われてしまいました。私は自分自身が精神的に弱い人間だと非常に悲観していたのですが、そのような思考回路では打開策は見つかりません。主人も人生を楽しみながら身体と精神に負担をかけないように病気と仲良く生きていくほうがいいといってくれているので、思いつめることもなく毎日を送っています。
そして、自分の心臓のことを考えると、もう子供を産めないかもしれませんが、毎日たくさんの子供達に囲まれての仕事は自分にとってとても大切な人生の一部になっています。

この尾張旭でのお仕事も行政、教育委員会が来年度の契約を私が勤める会社『アルティアセントラル』と交わすことが無ければ私は他の地域に行かなくてはなりません。それが公務員ではない私達民間会社の定めです。
私達ALTはある意味で英語を話し、その英語を使った授業を提供する商品でしかありません。人間として扱われるわけではなく、より安い値段で教育委員会を通し、授業という商品を入札という形で商品化されています。
私は生徒達のために教材や道具を準備します。私達ALTもプライドがありますから、他のALTよりもよりよい授業を供給したいと思っていますが、最終的には私個人が評価されることはなく、より安く外国人の授業を提供できる会社との契約を行政は求めている場合が多いように思います。
そのように個人としての評価をされることもなく、教育現場でより質の高い英語教育を受けるチャンスを子供達にと言う概念を持たないことは、私達ALTにとってはとても大きなストレスです。今現在、この尾張旭市も私の会社とライバル会社を天秤にかけているようですので、私が来年、この尾張旭市の教壇に立っているかどうかは定かではありません。市内三つの中学校の卒業生の皆さんや在校生の皆さんには本当に愉しい思いをさせていただいております。私は尾張旭の先生方とも親しくさせていただきうれしく思っています。来年度は他のALTが来ることになるのかもしれませんが、外国人も皆同じ人間であることだけは忘れないで居て欲しいと思います。
自画自賛になってしまいますが、私はこの仕事について教育現場での生活も長く、また、他の若い外国人ALTよりは経験も豊富だと思っております。この仕事を続けるために通信教育でTEFLという資格も取得しました。
外国人ならばALTは誰でも良いという評価ではなくクォリティーの高いALTを選ぶよう評価していただかない限り、日本の英語教育は発展を遂げるのが難しいのではないでしょうか。実際に、韓国や中国の英語教育はどんどんとすすんでいる現状です。英語を勉強しても話すことが出来ないような理解力では実用的ではありません。日本語でも話すことが出来るからこそ、他の人々とコミュニケーションをとることができるのですから、使えない英語ではどれだけ勉強しても大学入試準備の学問にしか過ぎないことになってしまうのです。13年前、全く日本語を話せなかった私でもこれだけ話せるようになったのですから、学校教育でも使える英語を教えるようにならなくてはいけないと思います。

長くお話してきましたが、今日はうちの主人もこの会場に来ております、。もし何かご質問がございましたら私たちでお答えできる範囲でお答えしたいと思います。主人を皆さんに紹介させてください。
『福山孝』です。

**************************

こうして質疑応答が始まったのです。
とても愉しい時間でした。
14年前のお話ですから・・・・・
ちょうど★カレン★が日本に来て今までの半分位を過したところですね。
今年で28年目ですから・・・・・・

とても懐かしい原稿です。
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